2019年8月1日
アドバイザー 加藤 洋男
盆踊りや花火の時期になると、浴衣姿に下駄のカランコロンという音が懐かしく感じられる。昭和30年代は一般家庭の9割に下駄があり、日常生活に欠かせないものであった。私の小学校の頃の写真を見ると大半の生徒は下駄を履いている。下駄を飛ばして表が上になって着地したら晴れ、裏が上になったら雨だと天気予報をして遊んだ記憶がある。当時は舗装されていない道路が多く、雨の日はぬかるみが出来るが、その点では下駄は塩梅がよかった。しかも風通しがよいので水虫も聞かなかったが、湿度の高い日本では理に適っていたのかも知れない。
その後、服装や道路事情の変化などで靴が主流となり、手軽な履物としてはサンダルやスニーカーにとって代わられ、現在は祭りや花火以外は、温泉旅館の外出時に下駄を履く程度になった。今でも履物入れは「下駄箱」というが、いずれはその語源を知らない世代が来るのかも知れない。
庶民の履物として広まったのは平安時代からのようだが、農具としてぬかるみでも足を沈みにくくして効率よく作業出来る「田下駄」は遠く弥生時代の遺跡からも見つかっているという。
下駄は、台と歯と鼻緒の3つにより出来ている。
台の素材は主に桐や杉だが、桐は白くて軽く高級品だったため庶民には縁が薄く、安いが重い杉が一般的だった。後には杉の上に竹を薄く敷いたものも現れた。
歯は通常は2本だが、天狗でお馴染みの1本歯もある。又、歯が高い高下駄もあり、雨天時には便利だったが、旧制高校生が破れた帽子、マント、よれよれ袴とほおを材料とした朴歯(ほおば)とをセットで愛用し、”バンカラ”と呼ばれていた。
「ぽっくり」と呼ばれるくり抜き型の歯は小さい女の子が履いたが、背の高いぽっくりと豪華な蒔絵が施された台は花魁の代名詞だ。
鼻緒の材料は麻・棕櫚(しゅろ)などいろいろあるが、途中で鼻緒が切れたら悲劇だが、器用な者は布切れを使って自分ですげ替えていた。
私たちは今後も健康で過ごせるか否かは「下駄を履くまで分からない(全て終わるまで分からない)」が、健康状態には「下駄を履かせる(見かけを上げるため数量などを足す)」ことなくありのままの姿を認識し、健康管理の方向は医師に「下駄を預ける(決定権を相手に任せる)」ことでその指示を忠実に実践することが肝要と思う。